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2011年8月15日 (月)

風化させるな終戦記念日!.../男親の親馬鹿な心境

当ブログの相互リンク、twitter仲間でもある「PCは俺の嫁」様が、被災地:陸前高田市を訪れています。
理由を聞けば「被災地ボランティア」だと言う。おい、彼は若干16歳の高校生だよ...

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早朝(夜明け前)彼がこうツイートした。

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尽かさず理由を聞くと...

110815_2

「PCは俺の嫁」様は今年高校に進学した16歳の青年だ。

・ブログ「Homeで自作しようぜ♪」 http://takuya0714.blog39.fc2.com/
・twitter「@kakumeihasegawa」 http://twitter.com/#!/kakumeihasegawa



夏休みを利用しての志と察する。
うちの馬鹿息子より1つ年上だが、頭が下がる思いだ。だって、うちのガキときたら受験生って自覚が(本人は有るだろうが)まったく見受けられ無いからね。何もボランティアへの参加を絶賛している訳では無い。今の自分は何をすべきか、何が出来るのか!を自覚し行動している事を褒めているのです。



さて、偶然か否か今日8月15日は終戦記念日。
悪夢の太平洋戦争から66年が経過する事となる。幸いにも私は戦争を知らない団塊世代の申し子だ。とは言え、ガキの頃の昭和40年代って、高度経済成長期の後期ながら暮らしは決して豊かでは無かった事を覚えている。個人的意見ではあるが、其れは昭和が終わるまで続いたと思う。

急変したのは平成になってからじゃないのかな。
全国にコンビニが乱立し出すのも丁度その頃でしょう。衣食住が色々な意味で発展したのも其の頃だと個人的には記憶する。時を同じくして3人の子供を授かった。生まれた時から衣食住に不憫がない生活。そんな我が子に己の苦労話などケセラセラだろう。だって、或る意味で平成の平和ボケ人種なのだ。

そうこう書いて居る間に、PCは俺の嫁様からの新しいツイート。


被災地すごいな。本当になにもないです。

110815_3

一緒に投稿されたLIVEな被災地画像。

110815_4

平成に生まれた彼の目に如何焼き付き何を感じたのか。後世に渡り、語り繋いで欲しいと願う。

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長くなったが (^^;;
何が言いたいのかって言うと「風化させるな」って事。
終戦から66年。当時の生き証人の方々が他界して行く中で、あの時代の過ちを二度と繰り返しては為らない。そして、自然災害への脅威もしかり。咽喉元過ぎれば...では過ちは繰り返される。戦争とは、核とは、被爆とは、自然とは。今の自分は何をすべきか、何が出来るのか!を自覚し、出来る範囲で行動して行くだけの事だろう。




末ながら、「長崎市/平和・原爆被爆体験講話」をリンクさせて頂きます。 http://www1.city.nagasaki.nagasaki.jp/peace/japanese/talk/

記事内では抜粋引用だが、是非とも基URLへ訪問して頂き原爆被爆体験の全文を読んで欲しい。ガキの頃に読んだ「裸足のゲン」は序章なのだ!と痛感した。「戦争とは、核とは、被爆とは」。終戦記念日、そして東日本大震災で「核とは」が問われているこの時期に親子で考えて欲しいと願います。



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被爆者の訴え 下平 作江さん(当時10歳)

(引用)1941年12月、私が6才の時太平洋戦争が勃発し、10才の時戦争が終結しました。戦争さえなければあの忌まわしい、原子爆弾も投下されないで済んだのにと思うと無念でいっぱいです。私達子供にとってつらかったのは、食べる物がない、履く物がないため裸足で学校へ行きました。しかし私達は「欲しがりません、勝つまでは」のスローガンを掲げて頑張りました。その時です。ピカッと光り暗い穴の中が隅から隅まで見えたと思った途端に爆風が吹き込んできて私達子供は、あっち、こっちと吹き飛ばされ岩に叩き付けられ、気絶してしまいました。誰からか頭をたたかれ気がつきました。ビックリしました。誰もいないはずの大きな防空壕の中は黒焦げになっている人、肉がちぎれて血まみれになっている人、眼球が飛び出ている人、火傷して二倍三倍にふくれあがっている人達がいっぱい入っていました。口々に「水をください助けてください」と悲痛な声をあげている人々。私は怖くて、怖くて身体が硬直し、動く事が出来なく、ただ「母ちゃん助けて」と叫び声をあげるのみでした。妹も吹き飛びお友達もどうなったかわかりません。姉の子も吹き飛んでいました。(引用終わり。以下略)

http://www1.city.nagasaki.nagasaki.jp/peace/japanese/talk/hibakusha_01.html



忘れられない原爆の悲劇 山脇 佳朗さん (当時11歳)

(引用)日本が太平洋戦争を始めたのは、私が小学校2年生の時でした。この戦争は私が6年生になってもまだ続いていました。その年の夏休み長崎に原子爆弾が投下されました。私は爆心地から2.2㎞の自宅で被爆しました。現在75歳です。ちなみに、今の天皇陛下と同じ歳です。(中略)道路上には瓦礫の間にたくさんの人々が死んでいました。その顔や手足は黒いゴム人形のようにふくれ、皮ふに靴が触れると、熟した桃の皮をむくようにぺロリと剥げて、白い脂肪の部分が現れました。川の中にも、たくさんの遺体が浮いていました。その中でも18,9歳くらいの女性が白い帯を引っぱって浮いている姿にひきつけられました。よく見ると、それは彼女の脇腹から飛び出した腸だったのです。私たちは気持ちが悪くなって目をそらし、足早に父の工場へ向かいました。(中略)兄弟3人で骨を拾おうとすればすれほど、半焼けの父の遺体はあらわになりました。焼けているのは、手首や足首の先、お腹の一部だけなのです。骨はほんの少ししか拾えませんでした。骸骨に灰をまぶしたような遺体は、なまの遺体よりはるかに気持ちが悪いものでした。それが、一緒に食事をしたり、話し合ったりした父親だと思うと、尚更、厭でした。(引用終わり。以下略)

http://www1.city.nagasaki.nagasaki.jp/peace/japanese/talk/hibakusha_02.html




十一時二分の碑 和田 耕一さん (当時18歳)

(引用)昭和二十年八月十五日、当時の日本は終戦の日を迎えた。しかし、長崎には終戦の日はなかった。残されたのは地獄図と化した街であり人々の姿だけだった。合理的な説明は出来ないが、なぜあれほど沢山の市民が、無心な子供達が、残酷に悲惨な状況のもとにさらされたのか。その姿は今でも、いや生かされている限り私の網膜からはなれないだろう。(中略)被爆後、比較的元気だった体調にも、いつしか種々の変化が出てきた。しかし他人に言ったところで、どうにもならないだろう。それからの私は、被爆のことと一緒に、あの時代のこともすべて忘れ去ろうと思った。そして原爆についても一切、口外すまいと。そう思い続けて三十数年であったが、初孫誕生を機に、なぜかあの日、電停横で見た黒こげの幼児の姿が重なり、二度とあの日を繰り返してはいけない、与えてはならないとの強い義務感が生じた。(引用終わり。以下略)

http://www1.city.nagasaki.nagasaki.jp/peace/japanese/talk/hibakusha_03.html

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<追記1>
当記事は「核反対」を推奨する意は有りません。
核の不透明な脅威、戦争の無意味さを唱えるだけに過ぎません。




<追記2>
ビキニ諸島で行われた核実験により、死の灰を浴びた「第五福龍丸」の積荷「マグロ」の処分を、我が母親が幼少の頃ながら覚えています。

・第五福竜丸
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC%E4%BA%94%E7%A6%8F%E7%AB%9C%E4%B8%B8

・(ビキニ諸島)核実験
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A0%B8%E5%AE%9F%E9%A8%93

<追記3>
例年08.15正午に鳴った警報が、今年は鳴らないな。何か意味が有るのか?




<追記4>
「PCは俺の嫁」様が陸前高田市で行った「被災地ボランティア」をLIVEでブログ更新しました。
http://takuya0714.blog39.fc2.com/blog-entry-281.html

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